まずはコメントから。
POSTED BY シント ON 2010年1月26日
人間と言う資源は日本には腐るほどあるのに、そこに着目せずリストラや給料カット、根性主義や精神論、若者バッシングやセクハラやパワハラなど、人材育成、指導、管理、登用が根本的に間違ってますから。
そもそも政治や経済の話は空気が読めないとして扱われますから、まずは意識改革から始めなければいけませんね。というよりも、日本には人も金も技術もあるというのに、なんでこんな運営や経営しかできないのでしょうか?
あ、それと、聞きたい事があるのですけど。三橋貴明氏をご存知ですか? この人のおかげで自分は日本財政破綻論は嘘だと気づきました。この人の主張している事が広まれば、景気も良くなると思うのですが………。
意識改革は必要ですね。せめて先進国と言える程度の権利意識はみんなが持たないといけません。後述しますが「デモは甘え」とか言っている人が平然といるのはすごいことだと思います。アメリカとかイギリスとかフランスにそういうことを言う人はどのくらいいるのでしょうか。ごく少数の変人を除いてはそんなのいないと思うのですけど、さて。
三橋貴明氏は聞いたことあるけど、ぐぐってみて、韓国経済の赤字について述べた人ですか。詳しくは残念ながら知りません。日本財政破綻はどうなんでしょうか。おいらはいずれすると思っています。理由は日本は生きていくために必要な食料すら輸入に頼らないとままならないからです。
まずよく言われるように国債を乱発していますが、96%は国内で保有されているそうです。したがって借金によって国家が破綻することはありません。行き詰まったら、円の価値が暴落することで日本人が主に損をします。あと産業は、できれば予想は外れて欲しいのだけど衰退していくと思います。稼ぐ力がないのに借金だけどんどん増えていきます。行き着く先は円安だと思います。円安というと輸出産業が儲かっていいことだと思うかも知れないけど、輸入品が高くなるのでいいことばかりではありません。吉野屋の牛丼の値段が国産牛の牛丼並に高くなります。当然店は安い方を買うから輸入牛肉が高ければ国産を使うため上限は国産牛肉になります。しかし国産牛も需要増加によって値段が上がるでしょう。また、悪い予想が当たってその頃にはまともに世界で戦える輸出産業が国内になければ円安メリットもありません。
というわけで、今は円高で苦しんでいますが、だいぶ先には円安に陥ってどうしようもなくなるんじゃないかな、と思っています。その頃には本格的に出稼ぎ移民が復活するでしょう。ハワイとかブラジルに日系人の子孫がいるのと同じことが起きます。外れて欲しい予想ですけどね。
デモは甘えとか言う人たち
twitter上で言っていたのだけど、もうトートロジーになってしまって、リプライとかRTする気にならないのでこっちに意見を書きます。140字だと書けることも少ないし。
悪いなんて一言も言ってないし、デモしたければR行く意味ない、本気だったらウォール街行くべきって話。デモなんて甘えだとも言った。
言いたいことは主に2点あるようで
- デモしたければR行く意味ない、本気だったらウォール街行くべき
- デモなんて甘え
本気だったらウォール街行くべき
なんで日本の就職事情についてのデモをウォール街でやらないといけないのか、ついぞ理解できませんでした。なんでも日本の優秀な人をウォール街が奪っているとか言っていたけど、優秀な人がウォール街に行くのは構わないらしい。じゃあ何が問題なのなのでしょうか。ウォール街でデモをするという発想はちょっと飛躍しすぎていて理解できません。少なくともおいらはウォール街は嫌いじゃありません。今の経済危機の発端を起こしたということを除けばね。
もし本当にウォール街でデモをやったとしたら、ウォール街の住人にとっては身に覚えのないとばっちり以外の何物でもありません。せめて国連とかで日本の労働状況の惨状を訴えるならわかるのですが。日本ってILO(国際労働機関)が採択した183条約のうち日本が批准しているのは48条約しかないのですからね。でも、条約を批准しても労働基準法を守らないブラック企業があるのだから、あんまり意味がないかも。
デモなんて甘え
これはあちこちで聞くけど、こういうことを言う人は文明人ではないとすら思います。まず日本国憲法前文
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
デモは甘えとか言っている人はこの前文の「われら」には該当しないのではないでしょうか。さらに同12条
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
おいらは法のことはよくわかりませんが、近代国家には権利というのは不断の努力によって守らないといけないという考えが根底にあるように思います。ルドルフ・フォン・イェーリングは
権利の生涯とは闘争なのだ – 民族の、国家権力の、階級の、そして個人の闘争である。実際、権利は衝突の表現としてのみ意味を持っており、人類が自らを飼いならそうとする努力の顕れなのだ。残念なことに、権利は権力・不正に対し、今日の理性的な世界ではあまり用いられることのなく、不快で卑しまれるであろう方法で対抗しようとした。というのも、権利が社会闘争を真に解決しようとしたことは、今までにただの一度もなかったのだ。それよりも、権利が目指したのは、ただ単に、最終的な決定が下されるまでの間、どのように争われるべきであるかを規則に定め、それらの闘争を穏やかなものにすることであったのである。
と本に書いているように、己の権利を明らかにすることは人間の自分自身にとっての義務であるという立場を取っています。日本人だったら丸山眞男がそんなことを言っていたはず。社会学の授業で読んだ記憶がうっすらとあります。
そういうわけで、自分の人生/健康な身体・精神/命/その他、大切なものをぶち壊されるまで何もしないのは社畜の理屈です。そもそもデモって甘えの対極にあると思うんですよ。だって行動しているわけで、何もしない行動力のない人にとやかく言われる筋合いはないのです。この辺のバックグラウンドはあまり定かではないので、間違って使うと格好悪いけど社畜社会「である」ことを変える努力を「する」ことは大事なのではないのかな。
近代的な民主主義国家ではデモは甘えではなく、当然のことでもあるし、(デモという形態をとらなくてもいいけど)権利のための闘争は義務ですらあるのです。論理学的にP→QならPの否定(前提が間違っている)or Qであるように、Pの否定=民主主義国家に生きる人ではない or Q=自らの権利は不断の努力で守らなければならないのどちらかです。「デモは甘え」という人は前者でしょうね。
ばいお
ばいおが「社畜マラソンwww」というエントリを書いています。メインテーマについてはしごく尤もだと思います。日本の会社ってアフター5とか昼休みとか土日祝日などの休日、本来取れるべき有給休暇・病休・その他の休みに容赦なく割り込んできてそれを当然だと思っている節があります。
ボランティアについて
【ボランティアという名の強制労働】
こういうマラソン大会って日曜ですよね。社畜にとって貴重な休日です。しかし返上してボランティアにいそしむようです。当然ながらボランティアの本来の意義からはかけ離れていて、まあ企業イメージアップのための強制的なものでしょうね。このケースでなくても、ボランティアってほとんどの場合は何か利益のためにやっているんじゃないかと思います。進学、就職に有利、世間wからよく見られるなどですかね。
そもそもボランティアって金持ちが有り余る財産と時間を使ってやるもんじゃないですかね。で、その財産とか時間ってのは搾取の結果得たものなわけで。それで貧乏人を助けるフリとか子供だましにもなりませんね。といっても私は寄付についてはすべて歓迎しますけどw
強制されるのはボランティアではないですよね。小学校の頃にゴミ拾いとか草むしりとかボランティアとか言って奉仕活動に無理矢理かり出されたことがあるけど、ちょっとはき違えているのではないかと思います。おまけに、ばいおの言うように企業イメージアップだとしたら問題ですよね。CSR(企業の社会的責任)の感覚がおかしいところはあると思います。
企業もしょせんは人の集まりですから、その構成員が社会的責任を欠いていると組織全体も責任のないものになります。
就活くたばれデモ関連でヤジを飛ばしている人のプロフィールに、社会的責任のない学生の発言には価値はないとか書いてある人がいたけど、学生にも社会的責任はあるんですよ。その人は知らないのかも知れないけどね。そういう人に限って社会的責任のない会社員になったりするもんですが。
たぶん、彼(就活くたばれデモ関連でヤジを飛ばしている人)の言う「社会的責任」というのは「《社会人》の責任」のことだと思います。で、この《社会人》は海外ニート氏が言っていたけど実に変な言葉です。英語には直接の訳語がないし、たぶん世界的に相当レアな言葉だと思います。学生は社会人ではないのだそうですよ。何かバカなことをやったら社会的な制裁を受けるにもかかわらず《社会人》ではないらしい。この根底には学生=遊んでいる半人前という考えがあるような気がします。教育機関の重要性は世界的に認められていて、特にアメリカなんかだと世界中から留学に来るほどなのに、日本では著名な人までもが「大学の4年間は時間つぶし」と言い切っちゃうくらい教育の価値が低い国なのです。
話は飛んだけれど、学生も社会の一員であり、仕事をしている人もまた同様にそうなのです。だから、社会のために貢献しなければならないという発想が少なくとも欧米にはあります。それがボランティアであったり寄付であったり、あるいは真面目に勉強して自信の力を高めて社会に貢献しようという学習姿勢であったりするのです。社会的責任を持たない学生が真面目に勉強しないのは当然かも知れませんね。努力はお金を稼ぐためのみに使う、稼いだ金は全部自分のものみたいな発想はさもしいと言われても仕方のないことです。貧乏人まで無理して寄付しろとは言わないけど、日本の金持ちってケチが多いとはよく言われます。
ただ、ばいおの意見でこれは違うなと思うのは「そもそもボランティアって金持ちが有り余る財産と時間を使ってやるもんじゃないですかね。で、その財産とか時間ってのは搾取の結果得たものなわけで。それで貧乏人を助けるフリとか子供だましにもなりませんね」というもの。有り余る財産を持つ金持ちというフレーズに注目するのなら、お金のあるところから搾取をして大金持ちになり、それを貧しいところに分配するという富の再分配の機能が生きているのです。ビルゲイツがWindowsを売りつけて、金持ちの企業にはエンタープライズシステムなんかを売りつけて金持ちになり、そのお金を貧しい人のために使うことは、お金の循環を生んでいるためバカにしたものではないのです。
ただ、しばしば世界中の中金持ちから搾取したお金がアメリカ国内の貧乏な人にしか回ってこないのはちょっとおかしいなは思います。アメリカの名門大学の特に理科系では奨学金制度が充実していて、その財源は寄付であることがよくあります。この奨学金はアメリカの大学に行かないと貰えません。アメリカに行けない人は黙ってGoogleとかMicrosoftのサービス/製品を買うだけで、自分の所には戻ってこないのです。
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